登戸駅開業の経緯と変わりゆく街 – 最終回

登戸駅 藤子F不二雄ミュージアム直行バス停

登戸駅(川崎市多摩区)は、前回伝えたとおり2度、駅名が変わっている。

小田急線が開業した1927年には「稲田多摩川駅」だった。1955年になると「登戸多摩川駅」へ変わり、この3年後に現在の駅名に落ち着いた。

登戸駅名の変遷とブランド米》からの続き

向ヶ丘遊園駅北口
向ヶ丘遊園駅の北口駅舎は開業時から引き継がれる

600メートルの理由

その「稲田多摩川駅(現:登戸駅)」は、小田急線の当初の計画には入っていなかった…多摩川をわたった電車は「稲田登戸駅(現:向ヶ丘遊園駅)」まで一気に走る予定だった…と、前々回書いた。(やっとここまで戻ってきました)では、なにゆえ設置されたのか?

理由は「南武鉄道(現:JR南武線)」。小田原線の鉄道建設と同時期に、川崎から登戸を結ぶ鉄道路線の建設が始まっていたのである。同時期と書いたが、鉄道計画も敷設免許の交付も、南武鉄道の方が先である。そして、小田原線より一か月早い1927年(昭和2年)3月9日…川崎~登戸間が開業した。ちなみに、南武鉄道の駅は頭に何も付かない、そのまんま「登戸駅」である。

同時期に同じ場所に線路が敷かれるとなれば、当然お互いの路線を利用するお客さんの乗り換え駅が必要となる。とはいえ、計画していた「稲田登戸駅(現:向ヶ丘遊園駅)」では、西に傾き過ぎていて、お客さんを歩かせることになる。ならば、南武鉄道の終着駅である「登戸駅」に、新しく駅をつくってしまえ!ということで、「稲田多摩川駅(現:登戸駅)」は誕生した。ようするに、お客さんの乗り換えの便を最優先させたのだ。

登戸駅と向ケ丘遊園駅の駅間がわずか600mと短いのはこのためだ。線路沿いの600mに並ぶお店を「今日はどこに入ろうか」なんて物色しながら歩くのを楽しんでいた私のような吞兵衛はともかく、通勤通学で利用する人たちにとっては、たかが600mといえど毎日行き来するのは辛い。

登戸駅周辺マップ

砂利採取連絡線と登戸連絡線

1927年(昭和2年)3月9日 、「南武鉄道(現、JR南武線)」川崎~登戸駅間が開業した。しかし、沿線に人口が少なかった開業時は、多摩川で採取した砂利を運搬するのが営業の主力であった。砂利は川崎河岸駅まで運ばれ、そこからは船で東京や横浜に運ばれていった。

多摩川河川敷の砂利採取場へは、宿河原駅から連絡線が敷かれていた。(地図参照)グーグルマップで宿河原駅周辺を開くと、駅から多摩川に向かって大きくカーブした道路が確認できる。地元住民も不思議がるこのなんとも不自然なカーブ、廃線マニアの間ではお馴染みの探索スポットなんだそうだ。

やはりこの時期、小田原線も砂利を運搬していた。こちらは、相模川で採取した砂利を座間停車場(現:相武台前駅)で集積し、そこから東北沢と新宿に運んでいた。関東大震災の復興に加え、1940年の東京オリンピック(日中戦争の長期化により返上)に向けた建設ラッシュなどで需要が増し、どちらの路線も活況を呈していたそうだ。

1937年(昭和12年)、相模川の砂利を川崎や横浜方面にも輸送できるよう、宿河原駅と稲田登戸駅(現:向ヶ丘遊園駅)との間に長さ約1kmの連絡線が敷かれた。登戸連絡線、もしくは南武連絡線と呼ばれたこちらの鉄路は砂利輸送だけでなく、繁忙を極めたときや、空襲などで車両が足りなくなった時に小田急と南武鉄道間で車両の貸し借りが行われていた。その際、互いの車両の受け渡しをこの連絡線で行っていたのである。

1944年(昭和19年)、戦時買収によって南武鉄道が国有化され国有鉄道南武線になると、車両の貸し借りはほとんど行われなくなる。1961年(昭和36年)、川崎市の都市開発がはじまると、無用になったレールは取り外され、線路跡は新しくできた街の中に埋没してしまった。さらに、登戸駅から向ヶ丘遊園駅の間は、新しい都市開発の真っ最中。残念ながら、わずかに残った痕跡もおそらく消滅していってしまうだろう。

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