登戸駅 名称の変遷と、江戸時代の稲毛米
川崎市多摩区

登戸 多摩川土手

何はともあれ、人々の期待を背負って小田急電車は走り出した。

初代社長、利光鶴松》からの続き

小田急線運賃の100年前と現在

開業当時の初乗り運賃は大人5銭(現在価値にして32円)、小児3銭(20円)、新宿駅~小田原駅間の運賃は当時1円36銭(865円)であった。ちなみに、その当時カレーライスが一杯が10~12銭である。

一銭の現在価値
日銀の企業物価戦前基準指数より換算。
明治時代の一銭は、今の価値にして200円くらいだった。しかし、大正時代になると一銭≒10.8円、昭和にさらに下がり1円以下に。

初乗り運賃がカレーライスの半額と考えると、ちょっと割高な気がするが、電車を利用する人もまだ少ない時代、これまでの投資コストなどを考えたら、妥当な料金なんだろうなとも思う。

それより新宿駅~小田原駅間の運賃だ。「あれ?まさか…」そう思って現在の運賃を確認したら、同区間910円であった。なんと、100年前とほぼ同額ではないか!所要時間が1時間も短縮されているのに…カレーライスの値段が10倍を超えているのに…だ。なんと有り難いことか♪みんな、もっと鉄道を利用しようよ!

小田急小田原線の開業時は38駅

小田急線開業90周年の時は、開業時の全38駅の駅名が記載された「乗車券」(レプリカ)が発売された。現在の駅数は47駅。この間、2つの駅、「山谷駅(南新宿- 参宮橋間)と 海老名国分駅(座間 – 海老名間)が廃止されているので、増えたのはトータル11駅。そして、38駅のうち17駅の駅名が変更された。

登戸駅周辺マップ

登戸駅の名称は2度変更された

現在の登戸駅は、二度名前を変えている。当初は「稲田多摩川駅」。1955年(昭和30年)に「登戸多摩川駅」になり、その3年後に「登戸駅」となった。ちなみに、隣の向ヶ丘遊園駅も最初は「稲田登戸駅」である。

この2つの駅に冠された「稲田」は、1889年(明治22年)に施行された「町村制」の際、登戸村、菅村、中野島村、宿河原村、堰村登戸村、菅村といった橘樹たちばな郡の村々が合併して誕生した、当時の村名「稲田村」から採られた。また、その村名は、「稲毛米が穫れる肥沃な水田」からの命名である。

稲毛米と徳川家光

江戸時代、上記の村を含めた多摩川右岸の稲毛領37村では、「稲毛米」と呼ばれる上質な米が収穫されていた。三代将軍 徳川家光が鷹狩の際に食し、「うまい!」と絶賛した!江戸の寿司屋で珍重され、高値で取引されていた…という伝説が残るブランド米である。宮中祭祀の新嘗祭にいなめさいで天皇陛下に献上する献穀田けんこくでんに二度も選ばれたというから、単なる伝説で片付けられない美味しいお米だったに違いない。

登戸の渡し
登戸の渡し

川崎領と稲毛領を結ぶ二ヶ領用水

こうした肥沃な水田が産まれた理由は、関ヶ原の戦いが起こる3年前1597年にまで遡る。徳川家康は、江戸入府に先駆けて多摩川の治水と新田開発を代官・小泉次太夫を命じた。多摩川周辺をくまなく調査した次太夫は、新たに農業用水を引くことを進言、川崎領と稲毛領を結ぶ長大な用水を造った。現在も多摩区から川崎区の多摩川右岸に沿って流れる「二ヶ領用水」である。この用水のおかげで米の収穫量が増え、先のブランド米が産み出されたのである。

1932年(昭和7年)、町制の施行によって橘樹郡稲田村は、橘樹郡稲田町へ。しかし、6年後の1938年(昭和13年)川崎市に編入され、その歴史ある「稲田」の名は廃止された。

最終回へつづく

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