小田原急行鉄道の初代社長は、利光鶴松氏である。ワイルドスピードなプロジェクトを成功に導いた人だ。
《小田急線誕生の話》からの続き
鬼怒川水力電気から生まれる
利光鶴松氏は東京市会議員、衆議院議員をへて実業界に転進。1910年(明治43年)に鬼怒川水力電気を創立。小田原急行鉄道は、その鬼怒川水力電気が母体となって設立された。
1919年(大正8年)1月、議員時代に東京市街鉄道問題に取り組んでいた利光氏は、都内交通の打開を図るという名目で、《東京高速鉄道株式会社》を設立し、都内複数の地下鉄路線の免許を申請した。総延長32キロの地下鉄計画であったが、掘り出した土砂で皇居の外濠を埋立てる…という案が内務省の反対にあって断念せざるを得なくなる。
ならばと、今度は大東京高速鉄道の延長線敷設という形で、東京~小田原間の鉄道敷設免許を申請した。市内地下鉄の延長という名目だが、実際は新規の事業。東京都心から放射状の交通網を広げるだけでなく、東海道線と中央線とに挟まれた空白地帯、神奈川県中央部の将来的な発展を見越した計画であった。
小田原線を短期間で敷設
利光氏の凄みは、「これを1年半で全線開通させる!」1925年(大正14年)11月に行われた起工式で大見得を切り、有言実行!それを見事に成し遂げてしまったこと。さらに、さらに、2年後の1929年4月1日には、江ノ島線まで開通させている。
そもそも、鉄道建設というのは、でき上がった部分で営業をしながら、徐々に延伸していくのが常道。それがいきなりの総延長110km「全線開通」である。
木造ではなく、すべて半鋼製車両
おまけに、電柱はすべて鉄柱、レールも当時最高品質のもの、木造車が大半だった時代に、すべて半鋼製車両にするなど、高度な設備にもこだわった。なにより、当初から全線の複線化を念頭に置き、それを開業半年後に達成したことは特筆に値する。当時、神奈川県内を通過する路線はほとんどが過疎地帯である。まさにSDGs!その先駆けではないか。こうした将来を見通した能力には刮目せざるを得ない。
いかなる困難もブルドーザーのように押しのけ、こうと決めたことは何が起ころうとやり遂げる。不撓不屈!剛毅果断なパワーあふれる人物。ネットにあがっていた彼の肖像写真が、自分のイメージどおりだったことに安心、納得した。時代の風雲児!希代の傑物!昭和の時代なので難しいが、こういう人物を大河ドラマで描いたら、とんでもなく面白いに違いない。
小田急線誕生の経緯を簡単に紹介してから、登戸駅の解説に進むつもりが、創業者・利光鶴松氏の半生にすっかり魅了され、ついつい文字数を重ねてしまった。まだ書き足りないが、沿線紹介がメイン。
そろそろ本編に戻ろう。
《登戸駅名の変遷とブランド米》へつづく