驚神社にまつわる歴史
横浜市北部の鎌倉時代

驚神社前
左:あざみ野駅方面

あざみ野駅から徒歩8分、山内小学校の先に驚神社おどろき じんじゃ(神奈川県横浜市)は鎮座する。祭神は、素戔嗚命すさのおのみこと。創建年代は不明だが、奈良時代に創建されたとの伝承が残されている。

驚神社本堂
驚神社(横浜市あざみ野)

鷺明神社は驚神社?

さて、その驚くべき神社名だが、江戸時代後期に幕府によって編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「鷺明神社」と記載されている。このことから、「鷺」という字を「驚」に書き間違えてしまったのではないか…との説がある。

確かに、活字を並べてみるとよく似ている。筆で書いたくずし文字を比べても、書く人によっては区別がつきづらいくらい似ている。『風土記稿』に限らず、昔の文献は文字の書き間違いという例が少なくない。大らかな時代だったのだろう。他人の間違いをとことん指摘し、糾弾せずにはいられない現在のネット社会なら、たちまちクレームの嵐に違いない。

もうひとつは、神社の足下を流れる早渕川がゴーゴーと音を轟かせていたので「とどろき」、それがいつの間にか、「おどろき」と聞き違えて伝わった…という説。

川の名前が「早渕」だけに、川音が「とどろいていた」可能性はある。世田谷区の「等々力渓谷」も、「滝の音がとどろいていた」が語源だ。だが、仮に「轟き」を「驚き」と聞き違えたとして、それをそのまま「驚神社」と名付けるほど、当時の村人は斬新かつ革新的なセンスを持ちあわせていたとでも言うのだろうか?

いずれにしろ、聞き間違え書き間違え…が名前の由来というのは、どうも釈然としない。「驚」という漢字を使うにはそれなりの理由があったはずだ。その真実を突き止めようと、祭りの余韻冷めやらぬ神社の境内を訪ねてみた。

その答えは、あっけなく見つかった。

境内に設置された由緒書き。

創立年代詳かならざるも、往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守なりしと云ふ

驚神社の由緒書き

と書かれている。

港北ニュータウン
横浜市北部(センタ南方面、あざみ野は右方向)

石川牧、横浜北部にあった牧場

延喜式えんぎしき』は、平安時代に編纂された律令の法令集で、国が認めた全国の神社が国や郡ごとに記録されている。そして、「石川牧」は、その時代に朝廷に献上するための馬を育てていた勅旨牧ちょくしまき。いわゆる馬の牧場まきばのこと。牧場と言っても、現在のように木の柵やフェンスがあるわけではない。川や崖などの自然の地形を利用して放牧されていた。多摩丘陵の南端にあたるこの地域は、小高い丘陵部と谷戸と呼ばれる低湿地が入り組んでいる。牧はそうした地形を巧みに利用してつくられていたのだろう。

ちなみに、火事が起きた時に「どうした、どうした」と群れ集まってくる「野次馬」の語源は、「谷地馬」だという。放牧していた馬を一箇所に集める際、リーダー格の馬だけを谷地(谷戸の同義)の奥へ追いやる。すると、その他大勢が「どうした、どうした」とリーダーの後に続いて奥へ向かう。そして、すべてが集まったところで一網打尽。これが真相、「オヤジ馬」を語源だと書いている本をときどき見つけるが、これは馬違い…いや、間違いなのである。

牧の範囲についても書かれていた。旧山内村の石川村、荏田村だけでなく、黒須田村、大場村、鉄村、鴨志田村の青葉区内にあった近隣の村々。さらに、お隣 都筑区の中川村、大棚村。さらにさらに、川崎市域に及んで、麻生区の早野村、王禅寺村と宮前区の菅生村、土橋村、有馬村、馬絹村、野川村、梶ヶ谷村…と、想像を遥かに超えた広さだ。その広大なエリアのど真ん中に総鎮守・驚神社が建つ。

由緒書には、

昭和14年、横浜市に合併当時まで、此の石川に秣場と称する馬料共有地五十餘町歩を遺せる

驚神社の由緒書き

とある。

秣場とは、牛馬などの飼料にあてる草を採取するために村々で共有していた土地のこと。50町歩とは、どのくらいの広さなのか。調べてみたら、約496,000㎡=東京ドーム10.6個分と、これまた途轍もない広さだった。

次の文章は、さらに驚きだった。

社前は、旧鎌倉街道に当たり、源頼朝の臣・畠山重忠篤く崇敬せりと云えり

驚神社の由緒書き

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場、源頼朝の臣 畠山重忠とは》へ続く

驚神社の場所