
登戸駅(川崎市多摩区)から放物線を描くように多摩区役所に向かって延びていた津久井道。その放物線の緩やかなカーブの部分が登戸の宿場街である。
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- 小田急線と南武線が乗り入れる [駅ガイド]

登戸駅からもう一度歩き直そう
平成の世になっても、古い民家と老舗の店舗が点在し、小さな路地の角、板塀、電柱などに宿だった頃の残り香が感じられた。
しかし、その残り香も今は雲散霧消。放物線を描いていた宿場町は、今回の土地区画整理事業によって碁盤の目のような“町割り”に上書きされ、老舗も、路地も、電柱も、板塀も…すべて姿を消した。あるのは真新しい住宅と小洒落たマンションたち。
迷った。何度も来ているこの街で初めて道に迷った!見覚えのない風景の中を右往左往。あきらめて登戸駅からもう一度歩き直そう…と、踵を返したその時、入母屋造りの大きな屋根が目に飛び込んできた。
寺だ!そうだ、宿の真ん中にお寺があったことをすっかり失念していた。神社仏閣は、よほどのことでない限り移転しない。とくに伽藍や墓地など広大な敷地を持つ寺が遷座することは稀である。

龍燈山善立寺
寺の名は「龍燈山善立寺」、かつては道路から10mほど奥まったところに山門があった。門までの参道の両側に民家があり、土塀が築かれていたと記憶する。現在、山門は道路に面している。気づかずにスルーしてしまったのは山門の周囲が工事用パネルで仮囲いされていたためだ。
善立寺は日蓮宗の寺院である。創建年代は不明ながら、平安時代に天台宗の祖・最澄の弟子である慈覚大師円仁が創建したという伝承がある。円仁が、ちょうどこの場所を通りかかったとき、観音変化の女性が現れて…「この場所に寺を建てなさい」と、言い残すと、たちまち龍に姿を変え天に登っていった…といった伝説だ。この龍の伝説から寺の山号を「竜登山」とした。この山号が登戸の地名由来だという説もある。
ちなみに、慈覚大師円仁は目黒不動(瀧泉寺)や芭蕉の句で有名な山形の立石寺(山寺)、伊達政宗の菩提寺、松島の瑞巌寺を開山したお坊さま。他にも浅草寺など関東209寺を開山、または再興したというから、善立寺もその中のひとつなのであろう。日蓮宗の寺になったのは、織田信長が安土城(滋賀県)を築城した1576年(天正4年)、開山した日成によって「龍燈山善立寺」と名を改めた。
山門前に大きな供養塔があったはずだが…新しい門の前には見当たらない。探すと、境内を入った左手に説明板と一緒に移されていた。立派な供養塔である。説明板には、江戸時代後期に40年にわたって続いた二ケ領用水の水利権争いがあり、その調停に奔走した井上弥兵衛という人が奥さんの供養のために建てた…とある。
郷土史あるある、水争い
我田引水は世の常、川のある土地、用水を引いた村々ではアルアルの水争い。とは言え40年は長い、長過ぎる。江戸時代の平均寿命を考えると、人生のほぼすべてを水争いの解決に費やしたことになる。登戸の水争いは菅、五反田、上菅生の三村および、下流の稲毛、川崎領52ヶ村との争い。隣同士での争いとはわけが違う。これは、奥さんも相当に苦労されたことだろう…。その罪滅ぼしか…供養塔の大きさに奥さんへの深い愛情が伝わってくる。

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1本目は『横浜市あざみ野にあるビックリする神社!?畠山重忠も崇敬していた!?』です。どうぞご覧ください。