津久井道の四つ角から消えたものがもう一つあった。南武線の踏切脇にあった「吉澤石材店」だ。江戸時代は寛政年間(1789年から1801年)の創業というから220年以上の歴史ある老舗の石屋さんである。こちらも区画整理のため、東へ300mほど離れた多摩沿線道路沿いに移転されていた。
《消えたお地蔵さま(北向地蔵)はどこへ?》からのつづき
石屋河岸と大丸用水
移転する前の店先には、やはり川崎歴史ガイドによる「石屋と石屋河岸」という説明板が立てられていた。その時に撮影した写真から文字起こしをしたのが以下の文章である。
多摩川の水運と津久井道の便で大いに繁盛した吉沢石材店は江戸後期からの店。伊豆や真鶴の石材は渡し場のすぐ下流にあった淀みから荷揚げされた。その船着き場を石屋河岸と呼んだ
説明板
「石屋河岸」は、大丸用水の水路が多摩川に合流する出口付近、現在の小田急線の鉄橋下、「登戸の渡し」の碑が立っているあたりになろうか。大丸用水については現存する史料が少なく築造された時期や経緯は明らかになっていないが、二ヶ領用水などとほぼ同時期、江戸時代初期に開削されたものと考えられている。かつて古川とも呼ばれた用水は、稲城市大丸(南武線多摩川鉄橋の上流)で多摩川の水を取り入れ、稲城市域の4村(大丸・長沼・押立・矢野口)と川崎市域の5村(菅・中野島・菅生・五反田・登戸)の水田を潤していた。
川崎市側は大半が暗渠化されてしまっているが、取水堰のある南武線「南多摩」から「稲城長沼」までは用水沿いを歩ける水辺のプロムナードとして住民に親しまれている。じっさいに歩いてみたが、住宅地の中に時折現れる昔ながらの用水路の風景がじつに爽やかで気持ち良い。桜の季節に賑わう川崎の二ヶ領用水とはまた違った形のオススメの散策路である。
歴史を刻む
江戸時代の多摩川の堤防は、現在とは違い大丸用水に沿って築かれていた。その時の合流地点は川幅も広く、水量も多かったため、船の出入りが出きる河岸(船着場)となったのであろう。
海から多摩川の六郷を経て船で運びこまれた石は、河岸から石屋さんの庭先に陸揚げされた。石は伊豆の河津石(砂岩)・真鶴の小松石(安山岩)などが主で、根深石(玄武岩)といわれる石も扱われたそうだ。
吉澤石材店さんのHPには、「陸揚げされた石をここで加工し、近隣の神社仏閣の石塔・灯篭などに、また石橋や基礎石などとして使われてきたのだろうと推察します」…と、記されていた。
また、HP内のブログには、北向き地蔵と馬頭観音の解体撤去と移設据え付け工事を請け負われたときの様子もアップされていた。石造物の移転作業も、素人には分からない苦労があるようだ。
「歴史の一つの節目に携わることができ石屋冥利に感じます。これからも先祖の仕事に恥じないよう努めてまいりたいと思います。ありがとうございました」と、ブログの最後はお礼の言葉で締めくくられていた。
古くから営業されている街の石屋さんほど、地域の歴史と深く関わっている生業はない。寺社の墓石や灯籠といった石造物はもとより、路傍の道標、庚申塔、忠魂碑や記念碑など、その時代、その時代の出来事や人々の暮らし、切なる願いや祈りなどを文字通り石に刻んできた。そうした先祖の功績を誇りに思い、受け継いだ技術を次の時代に活かしていきたい…という決意。この心意気がこれまた嬉しい。歴史を学び研究する者にとっても無くてはならない存在である。