江戸時代中期、登戸に風呂屋が登場!

明治時代の登戸宿マップ

善立寺(川崎市多摩区)の近くに「登戸の下駄づくり」という説明板があることを、記事「川崎市 登戸の繁栄を築いた、多様な職業と職人の技」で紹介した。

丘陵地の桐などを使って盛んだった登戸の下駄づくり。天保9年の記録では14戸に及ぶ。桐材をコウラという形に切って庭先に積み上げた独特の光景は昭和の初め頃まで見られた。

川崎歴史ガイドより

向ヶ丘遊園駅北口と小田急バス
向ヶ丘遊園駅北口より登戸方面 (2026年1月)

登戸東通り商店会

その説明板がある交差点角には、「手塚履物店」というお店があった。明治時代の町内見取り図に「手塚下駄屋」とあるのがそれで、下駄はもちろん、草履や革靴、スニーカーなど(履物)全般を販売されていた。店の前をなにげに通り過ぎていたが、120年以上の歴史がある老舗だったのである。残念ながら10数年前に閉店されてしまい、現在は1階に保育園が入った5階建てのマンションが建っている。

旧津久井道は、そのマンションの角を右に曲がり、多摩区役所方面に向かう。この通りの名は「登戸東通り商店会」。登戸の開発が始まる前は、スーパーや洋品店など、様々な商店が軒を連ねる、人通りも多いそれは賑やかな商店街であった。「提灯屋」さん・・・ なんていう珍しいお店があったのを覚えている。魚屋さんや八百屋さんの店先で、言葉が飛び交うような、昭和の時代の商店街であった。

開発によって、そのほとんどのお店が姿を消してしまった。自分が再訪したときに道に迷ったのも、この商店街の景色が様変わりしていたことによる。

明治の頃の町内見取り図にもう1軒!現役のお店が見つかった。手塚商店の交差点を挟んだ隣で営業されていた「石橋酒店」である。現在は、交差点角から少し奥に移動されて営業されている。

当時の様子を伺おうと、日本酒を1本選んでレジに持って行った、「いつ頃から営業されているんですか?」清算をしてもらいながら訊いてみた。「ちょっと待っててくださいね。社長を呼んできますから」とレジの女性。しばらくすると、奥から年配の男性を連れて戻ってきた。

江戸時代の銭湯の想像図
生成AIによるイメージ

風呂屋、それから蕎麦屋、酒屋へ

石橋屋酒店の社長、細埜隆己ほその たかみさんである。細埜さんは、この「登戸東通り商店会」の会長であり、川崎市の酒販協同組合の理事長も務められている。

「ざっくり言うと、この場所で300年前からやってます」

思わず唸った。300年といえば、江戸時代…それも中期ではないか!

「最初は風呂屋。ざっくり200年前は蕎麦屋をやっていた!(笑) 酒屋の営業を始めたのは130年前、明治31年だったかな…」と、まるで昨日のことのように笑顔で語る細埜さん。

風呂屋とは、もちろん銭湯のことだ。銭湯が江戸に初めて登場したのは、徳川家康が江戸に入った翌年の1591年(天正19年)である。江戸の街は、火事の防止や水事情から内風呂を持たない家が多かったため、町ごとに銭湯があるほど普及した。その頃の風呂屋は、現代のサウナに似た「戸棚風呂(蒸し風呂)」が主流。蒸気が逃げないように囲われた箱型の空間に、柘榴口ざくろぐちという非常に狭い入り口から浴室へ入る。まだ混浴の風習が残っており、三助さんすけと呼ばれる風呂屋の従業員が客の背中を流し、垢すりなどをするサービス(有料)もあった。

おそらく、石橋屋さんもそのような営業スタイルであったろう。銭湯は庶民の社交場として機能していたというから、宿の下駄屋さん左官屋さんといった職人さんたちが、1日の疲れを癒したに違いない。また、津久井道や府中街道を利用する旅人たちも立ち寄り、旅の垢を落としたことだろう。

戦国時代の登戸へつづく(近日配信)

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