暴れる多摩川と度重なる水難

登戸稲荷社の鳥居と社殿
登戸稲荷社(2026年4月)

伝統ある祭と、唯一無二の立派な彫刻と鏝絵こてえ!悠久の歴史を感じさせる登戸稲荷社(川崎市多摩区)だが、じつは江戸時代に他の土地から遷されたものであった。

登戸稲荷社の祭と鏝絵》からのつづき

登戸駅付近の多摩川
登戸駅付近より下流方面(2025年2月)

登戸稲荷社の由緒

『神奈川県神社誌』に記された登戸稲荷社の由緒には下記のように書かれている。

「甲州武田家の小荷駄奉行である吉沢兵庫が登戸に帰農し、その邸内に稲荷社を祀ったのがはじまりだという。天正18年(1580年)、多摩川の洪水で社殿は流失したが、後、中村の旧屋敷の敷地を譲り受けで再建した。もと鳥居前に寛政6年刻銘の鳥居があったが嵐で倒潰し、社殿も大損傷を受けたため、現在の社殿を再建した…とある。

やはり、こちらも戦国時代に関東に土着、帰農した武士であった。天正18年(1590年)といえば、小田原北条氏が滅び、関東に徳川家康が封じられた年である。だが、ちょっと待て。細埜さんが屋敷を引き払って津久井道沿いに風呂屋を営んだのは江戸時代、130年も年代がズレている。もちろん、「元屋敷」の「元」は付かない。

年号が間違っているのか…?と思ったが、そうではない。「後」というのは、「後の時代」という意味だろう。

登戸のお宮さんが平間へ

別の伝承によれば、登戸稲荷社は、元河原新田(現在の登戸新町)の兵庫島(ヒョーゴッチマ)という土地に屋敷神として鎮座していたのがはじまりだという。兵庫島は多摩川の堤外地(実際に水が流れている川側の土地、河川敷)である。ある年に多摩川で大きな氾濫があり、後日、下流の平間村(現在の川崎市幸区・中原区周辺)から「登戸のお宮さんが流れ着いているから取りに来てくれ」という連絡が来たという。その際、登戸村からは「こちらで新規にお宮を造るから、そちら(平間村)の方で処分してくれ」という返事をかえし、結局取りに行かなかったという。ちょっと考えられない話だが、登戸から平間まで12~14km離れているので、当時としては仕方なかったのだろう。

昭和61年(1986年)に編纂された『多摩川誌』によると、安永8年、安永9年、そして天明元年と…1779年から1781年の三年連続で多摩川は水害に見舞われている。中でも、天明元年7月12日の記事には「武蔵大風雨、多摩川氾濫、享保二年以来の大洪水…」とあり、川崎側だけでなく、対岸の世田谷の田畑、中流部は府中の堤防などに甚大な被害が出たことが記録されている。稲荷社の鏡台の墨書銘が天明3年(1783年)であることから、中村の元屋敷の地を譲り受けで再建した…のは、この天明元年(1781)の水害だと言われている。

江戸時代の賑わう蕎麦屋の店内のイラスト
AI生成イメージ

屋号《石橋屋》の由来

日本酒を抱え、お礼を言って石橋屋酒店さんを出た。細埜さんのお話に何度「へぇ~」のボタンを押したことか。江戸時代を想像しながら聴いていたせいか、タイムマシーンで現代に戻ってきた漫画の主人公のように現実を取り戻すのにひと呼吸必要だった。

「石橋屋」という屋号は、店の前に小さな川が流れていて、そこに橋が架かっていたからだそうだ。同じものかどうかは分からないが、生田緑地の「日本民家園」内に、この辺りにあった橋が移設されている。

ちなみに、江戸時代のファストフード(外食文化)の代表であったうどんが、蕎麦に取って代わられたのは18世紀頃だという。江戸時代の蕎麦屋は、店舗を構える「待ち店」と、移動式の「屋台(振り売り)」の2形態があった。 江戸時代中期、蕎麦の代名詞となったのが「二八(にはち)そば」。料金: 1杯 16文(現在の約400円〜500円相当)が標準で、 16文という価格(2×8=16)から来たという説と、蕎麦粉8割・小麦粉2割の配合率から来たという説の両方がある。その時代にタイムスリップできるものなら、ぜひ石橋屋の蕎麦を味わってみたいものだ。

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