相模国にあった津久井城の場所は、現在、津久井湖城山公園(相模原市)のあたり。津久井湖の南に位置する。
- 神奈川県立 津久井湖城山公園
- 津久井湖の城山ダム両岸と津久井城跡を整備した緑地。水の苑地・花の苑地・根小屋地区の3エリアからなる。橋本駅から7km。[詳しく]
「川崎市を通る六街道と津久井道の郷土史」からの続き
津久井郡は、相模原市緑区に
記事を書くにあたり、正確な位置関係を調べようと、ネットの地図検索で「津久井」と入力してみた。すると、画面に現れたのは、三浦海岸の隣にある津久井浜周辺の地図。住所は横須賀市津久井だ。京急 久里浜線の津久井浜駅あたり。
神奈川県の北西部に位置した「津久井郡」の大部分は、平成18年 (2006)の3月に相模原市に編入されていた。現在は相模原市緑区の一部となっている。
ようするに、津久井という住所は現在、相模原には存在していないのだ。
ただし、学校や警察署などの官公庁や、津久井湖や津久井城といった観光地や遺跡の名称としては残されている。
津久井城は誰が建てたか
その津久井城は、三浦氏の一族である筑井為行(筑井太郎二郎義胤)が築城したとも、鎌倉時代に大江氏の一族とされる津久井三郎親直が築いたとも云われている。それが本当なら、相模原の津久井は三浦半島が発祥ということになる。
津久井城が本格的に城として使われ始めたのは戦国時代。この地は、甲斐国と相模国を結ぶ重要な拠点であったため、武田氏と後北条氏との間で激戦が繰り広げられていた。
見ごたえのある城跡
20年ほど前に津久井湖へ行った時、湖畔から城山に登ってみた。三ヶ所の大堀切をはじめ、土塁や曲輪跡などの遺構もしっかり残る、なかなか見ごたえのある城跡。ダム湖である津久井湖が存在しなかった時代を考えると、かなりの要害であったことが分かる。また、山麓に根小屋(城主の館や郎党の屋敷集落)を備えた典型的な根小屋式山城としても貴重な遺跡でもある。
根本・城坂地区では1996年から津久井町が、津久井城を解明すべく学術的に「御屋敷跡」と呼ばれる曲輪を中心に発掘調査を行なってきました。学術調査は相模原市にも受け継がれ、これまで「竪堀」「城坂南曲輪群」などの発掘調査で成果を得ています。
(中略)
津久井城の歴史が徐々に明らかになりつつあります。
津久井湖城山公園 公式サイトより
《絹布はどう作られ、絹の道へ運ばれたか?》へつづく