絹布はどう作られ、絹の道へ運ばれたか?

絹の道と鉄道駅マップ

絹布けんぷはどうやって作るか?というと、江戸時代には昆虫のかいこが生み出すまゆを活用した。

繭の糸を、人が手繰って何本かり合わせ糸状にしたものを生糸きいとと言い、その工程を製糸。生糸を精錬し不純物を取り除いた加工製品の総称を「絹」と呼ぶ。

津久井道をテーマにした連載の第三弾は、津久井の養蚕と生糸の流通の話をどうぞ。

津久井城と津久井湖城山公園」からの続き

薬師池公園の古民家
薬師池公園(町田市)

津久井地域の絹織物「川和縞」

古くから養蚕ようさんが盛んだった津久井には、「川和縞かわわじま」という絹織物の特産品があった。別名「津久井紬つくいつむぎ」。経糸たていとに純粋生糸を使い、緯糸よこいとに玉糸を使ったかすりで、目が均一ではない素朴な風合が⻩八丈に似て、普段着用として江戸はもとより、京阪地方でも大人気だったそうだ。

ちなみに、玉糸とは二匹以上のカイコが共同して作った玉繭のこと。形も大きくいびつで綺麗な生糸を引く事はできないが、所々に節のある味のある糸ができる。現在、そうした玉は稀少で、全繭玉の約2%程度しか生まれないそうだ。

津久井地域で養蚕が広まったのは江戸時代の中期、寛延 2 年(1749)だ。その30年後に川和縞の織物が始まった。明治17年(1884)には、津久井郡全農家の80%、およそ4000戸が養蚕に従事していたという。この地域では、戦後も養蚕は衰えていない。

昭和40年(1965)には、春二回、夏一回、秋三回、冬一回・・・と、年七回の掃き立て(卵を孵化させること)を行っている。各期のスパンは、約一ヶ月から一ヶ月半で、通常は年に四~五回なのだが、 津久井では七回、最大で十二回の年もあったというから驚く。

小田急町田駅
小田急 町田駅「絹の道」の碑(中央左)
八王子から横浜へ生糸を運んだ絹の道・浜街道が通っていた

八王子から江戸、そして横浜へ!

江戸時代から明治にかけて養蚕が盛んだった津久井地方。当初は八王子に出荷し、甲州街道を使って江戸へと運ばれていた。だが、八王子の市場に出すと、地元の勢いが強いため、津久井の問屋は安く買い叩かれる。

そこで、「おいおい、だったら八王子に持ってかねえで、直接、江戸へ運んじまうべぇよ〜」と、津久井の問屋たちが結束した。かくして、黒い炭を運んでいた津久井ブラックロードは、白い生糸も運ぶ「絹の道(シルクロード)」となった。

そして幕末、黒船が来航し日米修好通商条約が締結された。日米和親条約で既に開かれていた箱館(北海道 函館)のほか、神奈川・⻑崎・新潟・兵庫が開港すると、従来の⻑崎に加えて横浜・箱館も輸出入の貿易港となった。つまり、横浜の港に居留する外国人と日本の商人との間で直接取引ができるようになったのである。しかも、外国人は江戸の問屋と違い、高い値段で商品を買ってくれる。

「おいおい、だったら江戸に持ってかねぇで直接、横浜へ運んじまうべぇよ〜」と、またまた結束。 八王子の在郷商人(地方の仲買人)も一緒になって、江戸の問屋ではなく開港場である横浜港へ生産品を卸すようになった。

困ったのは江戸の商人たちだった。

次回、五品江戸廻送令で、柿生/市ヶ尾を通るルートへ?

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