津久井道がどんな道でどのような歴史が残されているのか、それを調べるために小田急線の登戸(神奈川県川崎市)へ向かった。
「登戸という地名の由来」の続き
和泉多摩川駅〜鶴川駅
三軒茶屋で大山街道と分岐した津久井道は、世田谷区内を抜けて狛江市の「和泉多摩川駅」付近で多摩川を渡る。渡った対岸が川崎市多摩区の中心地「登戸」である。津久井道は登戸から町田市の鶴川まで小田急線と付かず離れず寄り添って進む。道に迷うこともないし、なによりトイレや飲食に困ることもない。旧道散策のコースとしてこれほど理想的なルートはない…ということで、登戸を散策の起点に選んだ。
ちなみに、「津久井道」という名は現在、「神奈川県道3号世田谷町田線」の通称となっている。県道3号には他に「世田谷通り=せたどう」「鶴川街道」の呼び名もあるが、紛らわしさ回避のため、旧道については今後「旧津久井道」と表記することにする。
多摩川の渡しと登戸
古くから「暴れ川」として有名だった多摩川は、これまでに何度も流路を変えている。とくに登戸付近は、川が網の目のように流れる「網状流路」の低湿地帯。現在、多摩川の南岸(右岸)にある登戸の街も、江戸時代中期以前は多摩川の北岸(左岸)に位置していたという。
大規模な洪水や氾濫も何年かに一度、必ず起きていた。『新編武蔵風土記稿』の登戸村の項には、「もとより川涯の村なれば洪水の患あり」と記されている。こうした水害から村を守るため、登戸村を中心として上流から下流に約7kmの堤防が延々築かれていた。河川敷や土手に今も残る水神様の祠は、水害に対する村人たちの祈りと切なる願いが込められているのだ。
そんな暴れ川も、江戸時代になると両岸を結んで渡し舟が活用されるようになる。東海道に設けられた「六郷の渡し」から上流に向かって矢口、丸子、二子、登戸、菅と、6つの渡し場があった。
津久井道に設けられたのが「登戸の渡し」である。「登戸の…」となっているが、江戸時代は宿河原村に渡し場あった。その渡し場も、明治から昭和にかけては、現小田急線の鉄橋下から多摩水道橋の間を何度か移動していたという。また、水嵩が減る10月から3月までは渡し船ではなく、仮の橋が架けられたという話も伝わっている。
渡し船の利用は、津久井道を上下する物資輸送者や旅人のほかに、多摩地区の村人たちが農作業のために通う「作場渡し」として使われることが多かったそうだ。理由は、狛江村の田畑が多く宿河原に有り、逆に狛江側にも宿河原村民の土地が残されていたためだ。これもまた、多摩川の流路が移動したため。このように多摩川の地形と歴史を知れば知るほど、「川が干あがった土地」説(登戸という地名の由来 参照)の信憑性が増してくる。
多摩川の渡し船として最後まで残っていた「登戸の渡し」も、「多摩水道橋」の架橋をきっかけに、1953年(昭和28年)8月に廃止された。この水道橋は、東京都内の水不足対策のため、長沢浄水場(多摩区三田)から相模川の水を都心へ送るための「導水管」で、架橋にあたって歩道と車道も併せて建設された。
ちなみに、小田急線の鉄橋が架けられたのは昭和2年。人や車が渡るより26年も早く電車が多摩川を渡ったのである。
あんな駅いいな♪ 夢があふれる登戸駅
5年ぶりの登戸駅。ご無沙汰している間に駅はトンデモナイことになっていた。駅の標示板、ホームの柱、ベンチ、階段に改札まで…あんなとこにも、こんなとこにもドラえもん。エレベーターにいたっては、「どこでもドア」と化していた。駅の発着メロディが藤子不二雄ワールドだということは知っていたが、まさか駅の内部までとは…。
『ドラえもん』は小学生の愛読書(もちろん、最初期の連載)、連載されていた『コロコロコミック』の製本にも関わっていた自分としては、涙がでるほど嬉しい。なにより、子どもたちが笑顔で電車に乗り降りしている姿を見るのが楽しい。
そんな夢いっぱい遊び心満載の駅へと変貌を遂げた登戸駅だが、小田急線の当初の計画には登戸の地に駅を設置する計画は入っていなかった。つまり、多摩川を渡った電車は向ケ丘遊園駅まで一気に走る予定だったのである。
《登戸駅開業の経緯と変わりゆく街》につづく